通学の3つのハードル

二学期が始まった。

今年は、自治体(学校)によって対応は様々で初日から給食ありの通常授業であったところ、半日給食なしだったところ、オンラインだったところがあったようだ。

オンライン対応をしていない学校で、登校に不安がある生徒は欠席扱いにしないとのお触れがでているところもある。

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子供の教育は憲法で保障されているけど、依然として下記の条件が揃わないと受けられない環境である。

①本人が通学可能な程度に健康

②本人の通学意欲

③家族の許可(義務ではある)

この3つが揃うことで、はじめて学校に通うことが可能になる。

①は、昨今であれば家族に陽性者が出たら本人は陰性でも登校できなくなる=授業が受けられない。

平常時でも、インフルエンザの解熱後数日間やその他感染症といった自宅であれば勉強できる状況でも同じく受けられない。

②は、様々な理由で本人が学校に行きたくないが勉強は遅れたくなくても受けられない。

③は、本人が希望しても親の考えで行かせていない場合(感染症の蔓延、受験期における体調管理、学校制度に対する嫌悪等)。

「通学かオンラインのいずれか一択!全員同条件!」という、形式のみの平等ではなく、補助的にオンラインを可能にする事で、今まで条件が揃わずに受け皿から溢れてしまっていた子供を教育の枠に入れられる臨機応変な対応をしていく土壌作りをしていくことが、本当の「平等な教育機会の提供」なのであると思う。


【全5回】パラが数字を取れるまでの道のり⑤

ここまでくると最終段階、リアルでも認識できる環境を作る。

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公立小学校に養護学校を併設もしくは隣接し、相互連携によって合同のカリキュラムを受ける機会を増やす。軽度の身体障害の生徒であれば双方不自由なく進められる授業も多いのではないか。

その際、体育でパラ競技を取り入れて一緒に行うことでバスケットやサッカーの様に「知っている(やったことがある)競技」の認識のとなる。

中学高校もクラス分けはあっても、同じ学校に障がいがある子が普通にいる環境を維持することで同じ社会を構成する人という認識が保てる。ここでも体育祭や文化祭等のイベントに一緒に参加するこで、お互いが出来る役割を模索していく機会が持てる。

これは社会人になった際、お互い大いに役立つと感じる。

その様な経験を積んだ子供たちが大人になった時、自分たちの子供の世代にも自然と引き継いでいく事ができる。

パラが数字を取れるまでの道のりには、ここまでの下準備が必要なのではと思った。(完

補足)

現在でも普通学級に軽度の知的障がいのあるお子さんが通われているケースがありますが、お子さんと受け入れる側(生徒)との意思疎通が難しく、双方に無理が生じていると感じます。その中で、受け入れる側の生徒のメンタル面でサポート出来る体制も整えられている学校はどれほどあるのでしょうか。

一方、身体障がいのお子さんは設備やガジェット(ハード)の問題でカバーできる部分も多く、もっと積極的に受け入れが出来る環境になればと思います。

【全5回】パラが数字を取れるまでの道のり④

前回は私たちが障がいを持った方を見慣れるには、障がいを持った方たちがメディア等各種コンテンツにガンガン出るべき!としたが、今回は具体的な登場方法について書いていきたい。

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まずはNHKから!

スポンサーに左右されない番組作りが出来る観点からも一番無理なく導入できるし、公共放送を謳っているのであればして然るべし。

朝の連ドラに主役脇役問わず現代モノの作品には必ず登場することで、定着を目指す。そもそも「半分、青い」は主人公が片耳聞こえない設定だったはずだが、何故か途中から消滅してたのは本当に謎。その他バラエティ番組にもゲスト出演して、「最近のNHK、障がいのある人がよくでてるな〜」と感じるくらいの頻度とする。

次は民放!

全年齢性別問わず視聴者が多いと思われるマツコ氏の番組にゲスト出演。具体的な番組といえば「マツコの知らない世界」。

この番組はタイトル通り視聴者の知らない世界を紹介する番組なので、一番違和感なく入っていけるのではないかと思う。マツコ氏のクレバーな解析、相手を盛り上げられる能力は、視聴者を未知の世界へ惹きつけるのにもってこいである。

ここで、放送局問わず注意したいのは、絶対に同情をかわせたり説教臭くしないこと!

前出のようなややアカデミック寄りのバラエティ(お笑い寄りのバラエティの場合、配慮に欠ける表現が出やすいので、この段階ではまだ時期尚早)や、明るい内容のドラマやアニメでの登場が好ましい。ポリコレ的にねじ込むのではなく、「時々出ているな〜」と感じる程度。

今までメディアによって植え付けられた、「慈愛を持って接しなければならない人、努力家、奇跡の人」といった誤った認識を壊し、「同じ社会にいる仲間」へと頭を切り替えるためには、何よりも「楽しい」内容である必要がある。

子供も大人も自分の事で精一杯、ストレスいっぱいで生活している中で、自分より気を遣わねばならい人を説教臭い内容で紹介されても誰も興味を持てないのではないか。

ここまでくれば、少なくとも「テレビの中では割とよく見る人たち」の認識まではいける。

すると、次の段階に移行できる(続

【全5回】パラが数字を取れるまでの道のり③

パラリンピックを見る際、どうしても障がいによる顔や体つきの特徴に見慣れなさを感じる人は多いと思う。

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これは、金髪碧眼の外国人を見た時に怖がったり嫌がったりする子供の反応に似ている。

大人になっても道で外国人に話しかけられると、どう接していいのか分からずフリーズしてしまうことがあるだろう。

小さい頃から外国人の先生に英語を習わせるなどして、我が子をグローバルな環境に慣れさせることを希望する親が多いというが、障がいを持った人に対して慣れることもまた、子供の頃から日常的に必要なのである。

ただし、障がいのある人の暮らしの中で健常者向けにデザインされた施設で過ごす事は不便であることから小さい頃から暮らす社会が分かれているのが現状だ。

本来であればここにメスを入れて、学校を完全バリアフリーにした上で習得度別のクラスを作るなど、障がいのあるなしに関わらず個人のペースで学べる環境や社会をつくるべきだが、残念ながらそこに到達するには課題が多いと思われる。

その前段階として今できる事の1つとして、普段触れるコンテンツにもっと障がいのある人を登場させることを提案したい。

似て非なるものにポリコレがある。これは人種差別撲滅のために等しくあらゆる人種の人物を出すというもので、時に過剰に演出される事から批判を招いているケースもある。

人種差別は特定の人種が特定の人種を認知した上で劣ったものとみなし、不利益を与えている問題であり、いわば差別する側の社会性の低さを是正することに目的がある。

よって、被差別人種を多く登場させるだけでは、何の解決にもならないと感じる。

一方、障がいのある人たちは「認知」の段階に至っていないことによる不理解が問題であることから、認知の面でもガンガン登場してもらう必要がある。(続

【全5回】パラが数字を取れるまでの道のり②

昨日は、パラリンピックが視聴率を取れないと判断される原因について考察した。

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では、実際にどうすればみんながパラを見るか考えていきたい。

まず、オリンピックはスポーツの祭典であるが普段スポーツに興味のない人たちも次のような理由で見ていると思われる。

メダルを取れるか興味がある

・頑張っている人を見たい

メダルについてパラの場合は、障がいの程度によって階級分けされており、その中でも障がいの内容が多岐に渡っている為、純粋に同じ条件で競うものではない。それゆえ、メダルの獲得に対する意味を解釈するのに個々人で温度差が正直ある。

また、頑張っている人を見たいについては、普段全く見慣れない四肢等の状況にある人を見ると言う、競技を見る以前の心構えが必要となりそこがひとつのハードルとなる。ここをクリアすれば身体能力の可能性や最新の補助器具の性能に感動しつつ興味深く競技を見守る事ができるだろう。

とどのつまりは、自分や見慣れている人と違った造形の人たちをいかに自然に認識できるかにかかっている。(続

【全5回】パラが数字をとれるまでの道のり①

パラリンピックは数字が取れない」

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民放が放送しない理由とされている。

なぜ、視聴率が取れないのか?

さまざま理由があると思うが、下記が大きいのではないかと思う。


「知らん世界のモノだから」


多くの人は、日常生活において障がいのある人たちと関わる事はほぼ無い。

テレビで取り上げられるけど年に一度の特番であったり、毎週だけど障がいのある人にフォーカスし過ぎた敷居の高い作りとなっている。

それによって「普段関係のない特別なもの」という意識が強化される。

イメージとしては、普段使う必要のない言語に似ている。

馴染みがなさすぎて、意識するまでに至らないのである。

要は、まだパラリンピックを見るまでの準備が足りなすぎるのである。(続

居酒屋は減るでしょうね

最近なんとなく思ったことは、そもそも飲み屋が多すぎるかもしれないということ。

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これは、アルコールに依存した日常生活が見事にマッチした結果であって至極自然なものでもある。

会社の親睦会→飲み屋

友達と会う→飲み屋

1人でストレス発散→飲み屋、家飲み


これが、コロナで一変した。

会社の親睦会→なし

友達と会う→なし、あっても少数でお茶程度

1人でストレス発散→家飲み


コロナ後はどうだろう🤔?

会社の親睦会→断る人も出てくる

友達と会う→少人数が増える?

1人でストレス発散→家飲み


※上記はいまだにパーティーをしたり大人数でバーベキューをしているようなアレな人を想定から除いている


会社の親睦会が無くなって数年経ち、今まで何で参加していたのか疑問に思った人も多いはずだ。しかも、働き方改革も相まって今後は今までの様に夜間に飲酒を伴った親睦会は減ると予想される。

飲み屋の大きな収益は会社等の団体客であって、これが減るという事は今後再開しても収益が先細りしていくであろう。

また、若い世代の酒離れも伴い酒類に頼ったビジネスモデルは変革の時代にきているのではないか。

太古より酒はコミュニケーションに必要なもので、現代までその役割を果たしてきた。

しかし、本来ハレという特別な時に使われていた酒がケにも常用されることによる弊害(アルコール中毒、暴力行為多発)が著しい。

本来ストレスは睡眠によって治癒するはずが、酒類に頼るという間違った使われ方をしている。

この点からも、酒の提供で収益を上げている飲み屋が他業種へ変更する事で図らずも社会の健全化に繋がるのではないかと思っている。